佐原文学碑めぐり

1.新村出歌碑
所在地 香取市岩ケ崎 稲荷神社境内
碑文
春の夜の 狐のよめいり 田のくろの 提灯ならぶ 行列も見し
新村出〈明治9(1876)~明治42(1967)〉は、「辞苑」「広辞苑」などの国語辞典編さんで知られる言語学者、文学博士。山口県山口市生まれで、号を重山といった。 碑の歌は佐原香取懐古の歌五首の一首である。これは九歳から十二歳(明治17~20年))までの少年時代、佐原・神明町の常照寺にあった栗本栗里の塾に在塾していたことがあったが、その時の思い出を歌に託したものである。

2.茶筌塚と五郷句碑
所在地 香取市佐原ホ427 即翁寺
碑文
移りかはる 世にさそはれず 花の艶
即翁寺は国道356号、岩ケ崎、両総用水第一揚水機場の近くにあり、碑は門の並びに建っている。 碑は三基あるが、中央の自然石が茶筌塚碑で、明治六年に香取郡並木村(神崎町並木)の石州流の茶人松霜庵宗?が長年使い古した多くの茶筌を埋めて供養したもので、本市では茶筌塚と銘うった碑は他に例がない。茶筌は普通茶筅と書き茶道の用具である。 その左の逆くの字形の自然石は、文久四年(1864、明治元年)に素盛庵語郷の句碑を社中の人々が建てたものと思われる。

3.五喜田正巳歌碑
所在地 香取市佐原イ 諏訪公園展望台付近
碑文
いちにんのほか 誰もなし 海光に 紛れてさむき ひとすじの過去
碑は諏訪公園近くの展望台の付近に建っている。ここからは眼下に佐原市街の中心地、更に遠くは利根川を隔てて、新島の穀倉地帯、潮来・牛堀の丘陵、鹿島工業地域が一望できる景勝の地である。

4.松尾芭蕉・恒丸他郷土俳人句碑
所在地 香取市岩ケ崎 稲荷神社境内
碑文
春の夜の 狐のよめいり 田のくろの 提灯ならぶ 行列も見し
新村出〈明治9(1876)~明治42(1967)〉は、「辞苑」「広辞苑」
などの国語辞典編さんで知られる言語学者、文学博士。山口県
山口市生まれで、号を重山といった。 碑の歌は佐原香取懐古
の歌五首の一首である。これは九歳から十二歳(明治17~20年)
までの少年時代、佐原・神明町の常照寺にあった栗本栗里の塾に
在塾していたことがあったが、その時の思い出を歌に託したもの
である。

5.雙生竹 碑
所在地 香取市佐原イ1020 諏訪神社
碑文
雙生竹のいわれが書かれている 雙生竹碑は、諏訪神社の表参道石段の中ほど、琴平宮の下にある。自然石で高さは155センチ、幅95センチある。碑は宣命がきで書かれている。内容は、天明3年(1783)の夏のこと、竹のないところから突然竹の子が生え、これは不思議、神のおぼしめしと語り合い、文政四年(1821)碑文を国学者源(小山田)与清に頼んで佐原の名主、本谷徳隣ら有志が建立したものである。裏に文字の読み方や、そのときの様子などが書かれている。今も碑のそばに、十数本の竹が生えている。

6. 伊能月彦句碑
所在地 香取市佐原イ1020 諏訪神社
碑文
相槌を谺のとるや小夜砧
諏訪神社社務所、池のところにある。 伊能月彦は、伊能彦作(桐雨)の孫であるが、詳しい経歴はわかっていない。 祖父の伊能桐雨(1780~1837)は幕末の俳人、安永9年11月11日香取郡山崎村(八日市場市吉田)林宗巴の二男(円城寺竹亭の兄)として生まれた。長じて佐原伊能彦作の養子となって、伊能の姓を冒し、諱は影好。桐雨または黙庵(牧庵)と号した。性格は磊落でよく山水に遊ぶことを好んだ。家業のかたわら俳諧、詩をよくし、家督を子影広に委ね後は、これを専らこととした。著書に「黙庵俳歌集」5巻がある。天保8年11月4日没。年58才。墓は牧野の観福寺にある。また同寺域内不動堂前に佐藤坦の選文による墓碑が立っている。桐雨の子、景広、その子、月彦も俳諧をよくした。

7.水郷女人句碑
所在地 香取市佐原イ1020 諏訪神社
碑文
八十のなほ生きる気の梅を干す 徳似
連添ふといふこと風の姫女苑 貞子
湧水の柄杓にうまし若葉風 柳水
宵闇や利根にかたむく北斗の柄 よし女
雲の峰故郷の山に父の顔 美代子
老杉に余寒のからむ神の庭 春蘭
一望の田水に動く春の雲 康子
深爪にうづき覚ゆる春の宵 珊瑚
木々枯れて見えなきものの見えて来し 節子
木の芽雨ときには枝を揺さぶりて 孝子
大津絵の鬼の幼なさ春の逝く 花ねむ
昭和61年10月建立。佐原を中心に居住する女性俳人の合同句碑である。女性の活躍の著しい現在の俳句界を象徴する快挙と言える。場所は芭蕉などの句碑の多い諏訪神社境内。女人句碑はこの名所に花を添えた感がある。とにかく女性だけの合同句碑は珍しい。句風はおおむね温和にして優雅。佐原の風土を反映している。

8.清宮秀堅詩碑
所在地 香取市佐原イ1710の1 清宮利右衛門邸前
碑文
地占八洲東海東(地は占む八洲東海の東)
利根曲折貫其中(利根曲折して其の中を貫く)
平原何恨雲烟乏(平原何ぞ恨みん雲烟の乏しきを)
澤国堪誇鰕菜豊(澤国誇るに堪えたり鰕菜の豊)
碑は清宮秀堅の生家前に建っている。碑文は「北総詩誌」巻頭の詩である。同書は北総地方の名所旧跡を漢詩と漢文にまとめたもので、明治10年と没後の明治21年に出版されたが、碑面の詩は作者の真跡を尊重し、弘化4年(1847)の稿本によった。

9.尾崎一雄碑
所在地 香取市佐原イ765-2 小野川口付近
碑文
船の発着所のある利根川べりの小さな宿屋に泊った。十五夜の月が満々たる水の向ふに浮かび上がった。眺めは眼に残っている盆のやうな月と言ふが、それが静かにのぼってくる空にはりついたやうな静かさだ。利根の流れに長くゆれる光る投影、あんな月をあんなにゆっくりと眺めたことは珍しい。
碑は佐原の市街地を二分する小野川の川口に近い右岸に建てられている。かつての水上交通が盛んであった頃、この近くに川岸屋という宿屋(蒸気船の旅客を主に対象にしていたので蒸気宿ともいった)があり、そのころは大いに繁盛していたが、今は廃業し家も造り替えられてしまっているので、昔の面影はない。当時は対岸に山本旅館もあった。宿屋や商店の前の川岸には「出し」と呼ぶ石段が作られ、船からの乗降に使われていた。これも河川改修でほとんど姿を消した。

10.永沢躬国歌碑
所在地 香取市佐原イ3839地先(開運橋付近)
碑文
常陸なるかしまが崎を見わたせば 帯ばかりにぞ霞そめける
碑文の歌は「香取四家集」の中の躬国集からとった。歌意は(わが下総の国から)常陸の国(茨城県)の鹿島の崎方面を見わたしてみると、霞が帯のようにたなびいて見えることだ、というものである。

11.柳田貞亮碑
所在地 香取市佐原イ498地先(共栄橋付近)
碑文
字是居心後(字は是れ心後に居り)
意要在筆前(意は筆前に存るを要す)
揮亳無阻滞(揮亳して阻滞無くんば)
巨細自然圓(巨細自然に円になり)
碑は小野川の左岸、共栄橋近くに建っている。碑文の詩は「論書二十首」の中の一つで、書をかくときの心構えを表し、筆を下ろす前に字意をしっかりと把握することの大切さを説いている。

12.伊能穎則歌碑
所在地 香取市佐原イ1895地先(伊能忠敬旧宅付近)
碑文
風さむきゆうべのそらの春雨に まだこゑほそきかはづなく也
碑文の詩は、安政3年(1856)52歳のもので、「下詠草乙卯集」にあるが、自筆短冊を元にして刻んだ。題は《雨中蛙》、水郷佐原の清澄な田園の風趣である。平明の中の非凡、これが穎則の歌の特色である。碑は伊能忠敬旧宅前の道を東南約100メートル、小野川岸に建っている。

13.小林一茶句碑
所在地 香取市佐原イ本宿コミュニティホーム
碑文
笹鳴も 手持ちぶさたの 垣根哉
碑は裁判所に近い本宿コミュニティホーム敷地内にある。 小林一茶〈宝暦13(1763)~文政10(1827)〉については、中学国語の教科書にも「やれ打つな蠅が手を摺り足を摺る」の句が載るほどよく知られている江戸時代文化文政期の俳人である。各地を行脚した俳人でも知られているが、房総への行脚も多かった。佐原方面へは、文化6年(1809)、同7年、同8年と3年つづきで来訪しているが、あまり知られていない。一茶が佐原を訪れたのは、当時の佐原に葛斎恒丸(既出)という俳人がいたためであり、碑文は、同7年10月、恒丸の墓参のために来訪したときの追悼吟で、『七番日記』にある。筆跡は自筆稿本の『七番日記』から採り拡大したものである。

14.揖取魚彦歌碑
所在地 香取市佐原イ3360 八坂神社境内
碑文
入日さす豊旗雲は わがこふる よしのの山や 越て来つらむ
碑の歌は江戸中期の明和6年(1769)、47歳の時、夫人雅木と大和へ旅した折のものである。天性豊かな語感をもち、壮麗な自然を生き生きと詠んでいて、清純な古代への愛情を汲むことができる。雲を詠じた「天の原吹きすさみたる秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり」も写生の秀作で忘れ難い歌であろう。

15.飯田秀真歌碑
所在地 香取市佐原イ3360 八坂神社境内
碑文
大鳥居御造営記念碑 みな人の心協せて成りなりし
八坂の宮のうつのみとり 八坂神社入口左側にある。高さ約92センチ、幅2メートルほどあり、昭和38年6月、鳥居の竣工を記念して建立された記念碑の左側に刻まれている。皆が協力して鳥居が出来上がったという喜びの歌である。

16.千鳥庵句碑
所在地 香取市 片倉邸
碑文
はげみあふ 羽音いさまし 渡り鳥
八坂神社の近くで片倉米店中庭にある。碑の高さ170センチ、幅112センチ。本名を片倉吉之助(1828~99)号を「千鳥庵」という。千鳥庵は東 旭斎と同時代の俳人で東京の生まれで、青年の頃佐原にきて八日市場に住み、米殻肥料商を営んだ。

17.今泉恒丸句碑
所在地 香取市寺宿 前原墓地内
碑文
蘆花半輪これ俳諧の一大事 恒丸
春の野や我は花より草まくら 菊后
いろいろの花はあれども秋の暮 素菊
恒丸の句碑は、前原墓地の中ほどの通路に沿ってあり高さ約80センチ、幅70センチのもので、写真の左側のものがそうである。右側の句碑は菊后、素菊のもので、高さは約90センチ、幅60センチほどである。

19.伊能式部句碑
所在地 香取市寺宿 前原墓地内
碑文
山もとの日向をゆけば春の日に 乾きて白き笹のはしりぬ
碑の歌は、実弟が中国の開封においての客死を追憶し、靖国神社へ奉献し2位に入選したものである。揮毫は友人の赤羽郁(歌人・詩人・教育者)による。
(訂正) 都川はな歌碑の碑文(歌)を次のように変更します。お詫びして訂正します。
碑文
浚渫船の裸燈あかるき夜の川に 作業すらしも人影のみゆ
(参考) ①掲載されていた碑文「山もとの・・・」弟、都川勝の墓碑にある歌。弟の勝は、昭和20年9月3日、北支(中国)開封にて戦死した。行年37歳。この歌は、墓碑の裏面に「忠勝院作」として刻まれている

20.宮沢江月句碑
所在地 香取市牧野1752 観福寺
碑文
はつ鶏の地に下るまで明けにけり
江月の句碑は、観福寺の本堂真向いの、やや右手の中段にあって、高さ約1メートル5センチ、幅66センチの小さめのものであり、安政5年(1858)の文字がみえる。宮沢江月は寛政4年(1792)佐原下仲町に生まれ通称を与左衛門といって大工であったが、俳諧を好み、江戸から佐原に住みついた今泉恒丸に師事した。

21.坂本桃淵歌碑
所在地 香取市牧野1752 観福寺墓地
碑文
提灯のわざをつとめし心より 世にくらきことなくてすぎぬる
歌碑の裏にある沢田総重が記した略歴によると次の通りである。 坂本桃淵は、通称を浅吉といい、佐原市野間谷原の坂本平左衛門の長子として生まれた。

22.今井邦子歌碑
所在地 香取市香取1697 香取神宮
碑文
いつきても胸 すがすがし 神宮の しづけき森に いろつく楓
表参道の、大鳥居をくぐりまもなく左の小高いところに、高さ約78センチ、幅1メートル10センチの邦子の歌碑がある。

23.中臣朝臣大直歌碑
所在地 香取市香取1697 香取神宮
碑文
香取のや おほみまつりに 山かはも よりて仕ふる ことしうれしも
香取神宮神徳館内にある、自然石に碑文がはめ込まれている。高さ104センチ、幅155センチの大型のものである。昭和39年額賀大直先生三年祭斎行委員会によって建立された。

24.伊藤泰歳歌碑
所在地 香取市香取1697 香取神宮梅林
碑文 こ
ざくらにあらぬよろひのをどしげの それさへはなににほふけふかな
香取神宮宮本殿裏、桜の馬場、寒香亭の下の梅林にある。碑の高さ1メートル15センチ、幅55センチの仙台石で大正十年(1921)五月門下生寒香亭主人、香取八五郎の手で建立されたものである。歌碑の歌は「杉の木かげ」の中の一首で、一時絶えていたが香取神宮式年神幸祭が、泰歳は歓喜のあまりこの歌を詠じたと伝えられている。

25.篠塚佐郷句碑
所在地 香取市新市場 水喰墓地
碑文
夕月や 山へぼろんと 逃げし鬼
篠塚佐郷は、昭和10年(1935)、佐原市新市場の生まれで本名は正幸である。 十代の終わりに友人らと純然たるアンデパンダン形式の同人誌「同輪」「濁流」等を創刊した。以後、「扉」「杉」「四季」といくつかの結社に属したが、現在は無所属。農業の傍らタイル張りを業としている。
西東三鬼、三橋魔女に私淑するとともに、神崎町の磯辺徹氏から俳句等の指導を受けた。佐郷の句は、「つねに強直性脊髄炎という日々激痛をともなった、現代の医学では不治の病とされている難病との闘いのなかから生まれて来たものであると言っても、あえて過言ではない。と句集「袈裟」のあとがきで述べている。」

26.東旭斎句碑
所在地 香取市山田字高房(山田の松跡)
碑文
いく春の 枝のみどりや 神の松
香取神宮の南方約1キロメートル畑中で、現在は松喰い虫の被害で枯れた市の天然記念物「山田の松」跡にある。 この松にまつわる伝説は多く、むかし天狗が住んでいたとか、源頼朝が休んだところとかいわれ、松の名称も多く「千本松」「たこ松」「高房の松」「山田の松」などとよばれた。松は昭和58年の夏、枯死し惜しくも伐採したが、樹令約500年、高さ22メートル、枝の張り東西へ22メートル、南北へ25メートルの美しい松で「神の松」として村人から崇められていた。碑は平頂角柱型の記念碑形式で、碑文は側面に刻してある。旭斎もこの松に見とれ、その美しさに感応して、句を詠じたものであろう。

27.東旭斎翁寿蔵碑・芭蕉句碑
所在地 香取市多田新田 小野入口路傍
碑文
山路来て 何やらゆかし すみれ草
県道、佐原山田線の多田新田旭斎生家の入口道路沿いにある。明治25年(1892)春3月に建立したもので、高さ2メートル、幅90センチの仙台石である。この句は『野ざらし紀行』の「大津に至る道、山路こえて」と題して詠んだもので、俳聖を敬慕してきざんだ。 この碑は東旭斎〈文政5(1822)~明治30(1897)〉の長寿を祝して生前あらかじめ建てた碑で、題字の「景福」は従二位伊達宗代百歳の書、碑文は門人玉井可笑、穆々堂主東皐高木堅が書き、文学博士公島田重禮の校正によるものである。

28.松尾芭蕉・東旭斎句碑
所在地 香取市多田新田 東邸
碑文
(表)旅人と 我名よばれむ 初時雨 (
裏)ぬるゝひま 出来て老いけり 初時雨
東旭斎翁寿蔵碑から2分のところに旭斎の生家がある。碑は長屋門を入り、左側の中庭にあり、芭蕉200回忌を記念して、明治14年(1881)に旭斎が建てたものである。
碑の高さ1メートル37センチ、幅40センチ、くの字に曲った自然の変成岩を使用してある。 碑文は表に『笈の小文』からの芭蕉の句、裏に「旭斎」が芭蕉の句に対してそれに答えて、返しの句を刻してある。

29.東旭斎句碑
所在地 香取市津宮八区
東の宮 碑文 美しき 鶴の額や はつ日影
江戸時代、香取神宮へ表参道、東の宮鳥居入口、道標の側面にある。道標に鶴が短冊をくわえて飛ぶさまを陰刻しているものは珍しい。 この道標は、高さ106センチ、幅33センチ角柱である。何故、道標に刻したかは不祥だが、旭斎関係の門弟が建立したものであろう。

30.本宮三香詩碑
所在地 香取市津宮 東の宮境内
碑文 華
表巍然聳水中 (華表巍然として水中に聳ゆ)
武神霊蹟古津宮 (武神の霊蹟古津の宮)
蟠龍学徳人皆仰 (蟠龍の学徳人皆仰ぐ)
千載須伝忠孝風 (千載須らく伝ふべし忠孝の風)
津宮風土詩 三香

31.香取重忠歌碑
所在地 香取市津宮八区 沖の宮
碑文
ちはやぶる 神のわたりし 渡津海の 沖つの宮は 幾世へにけん
東の宮と道路をはさんで反対側にある。通称「沖の宮」といっている。周囲は槇塀でかこみ、面積は約18平方メートルで住吉の神を祀る石祠がある。 当初歌碑は大正12年(1923)作者の香取重忠が高さ80センチほどの砂岩(銚子石)に刻して建ててあった。碑文が摩滅し、碑も中程から折倒したので、重忠の孫、香取禧良が昭和56年に神明燈籠を新造、奉献し祖父の歌を幢身に刻したものである。

32.与謝野晶子歌碑
所在地 香取市津宮 鳥居河岸の堤防中段
碑文
かきつばた 香取の神の 津の宮の 宿屋に上る 板の仮橋 晶子
碑は坂東太郎こと、利根川の佐原市津宮の堤防上にある。かつてはこの当たりを「津宮鳥居河岸」といって高瀬舟、木下茶舟など多くの船舶が出入りした河港であった。ここから香取神宮までは約2キロ離れている。河岸には宿屋もあった。碑文の宿屋は村田屋といい、明治44年(1911)、晶子はここに泊った。碑の歌はこの時の津宮鳥居河岸の歌で『青海波』から採択した。

33.松尾芭蕉句碑
所在地 香取市大倉5 側高神社参道脇
碑文
このあたり目に見ゆるもの皆すゞし
佐原から銚子まで、国道356号線沿いに丘陵が連なるが、その中でも一段と高い所に側高神社が建っている。 この神社は香取神宮第一の摂社ともいわれ、創建も香取神宮と同じ神武18年とされている。 この句碑は、国道と並行して通るJR成田線を超えた山ぎわにある。昔、この辺に御手洗の池があった。 松尾芭蕉(1644~1694)のこの句は『笈日記』の中にあり、原句では 此のあたり目に見ゆるものは皆涼し と中七に「は」が入っている。 「みのヽ国ながら川に望て水楼あり」で始まる。「十八楼ノ記」という文章の末尾にあって、貞享五仲夏と記してある。

34.三越左千夫詩碑
所在地 香取市大倉5 側高神社
碑文
いのち りすとくり 三越左千夫
おちばのうえの くりをひろって りすはしあわせ りすのしらない おちばのしたの くりはしあわせ たべなければ いきられない
たべられたら いきられない りすです くりです いのちです
碑は側高神社の上り参道手前右側にある。平成7年3月に建てられ、高さ138センチ、幅288センチの大きな自然石に詩文がはめ込まれ、裏面には略歴が刻まれている。

35.徳富蘇峰碑
所在地 香取市扇島1837-2 水生植物園前
碑文
水郷之美冠天下(水郷の美 天下に冠たり) 蘇峰正敬 昭和12年6月、
徳富蘇峰揮毫で水郷利根保勝会によって建立された。碑の高さ4メートル5センチ、幅138センチ、大型の仙台石である。碑、建立の発端は昭和12年春、松竹映画会社が、「利根の朝霧」と題して「水郷」を紹介し、放映され、東京で大人気となった。これは昭和8年(1933)に、日本八景25勝運動7周年記念に計画されたものであった。また前年、水郷大橋が完成、開運したのと併せて記念して建てられたものである。

36.北原白秋詩碑
所在地 香取市扇島1837-2 水生植物園内
碑文
かわずの啼くは ころころ 田螺の啼くは ころろよ ころころ ころろ ころころ 萌え来よ 春の下ん田
碑の詩は水郷をうたった長詩『水村の春~十六島』の一節である。碑はその十六島のほぼ中心地、市立水生植物園にある。この当たりは戦後の昭和四十年代に土地改良事業が行われ、この詩が作られた頃とは風情を異にしているが、周囲は広大な田園に囲まれ詩の中に出て来るかえるの鳴き声はその当時と大差ないだろうと思われる。碑の大きさは高さ115センチ、幅95センチ。

37.相馬柳堤・西尾洲陽句碑
所在地 香取市扇島沖の洲 墓地
碑文
冬晴や筑波突き刺す利根堤 恩師 柳堤翁
ふんだんに真菰むしりて墓洗う 洲陽
相馬柳堤、本名多茂津。明治33年(1900)小見川町一の分目新田に生まれる。長年、小学校訓導として近隣子女の教育に努めた。昭和44年に没する。 俳句は「ホトトギス」「ちまき」等の俳誌に発表した。特に高浜虚子には、絶対的な崇拝心を抱いていた。西尾洲陽、本名甫。明治44年(1911)、佐原市扇島沖の洲に出生し、農業に専念する。俳句は「ホトトギス」そして「朝日新聞俳壇」では常連として現在も活躍している。この句碑は、柳堤没後、弟子であった洲陽が建立したものである。柳堤はこの句を、生涯の自信作であると語っていたという。

38.椎名重晴句碑
所在地 香取市扇島下の洲 椎名邸
碑文
落葉たくけむりすなほな日よりかな
椎名重晴は、大正11年(1922)佐原市扇島の農家に生まれる。 JR鹿島線十二橋駅のホームに立つと、幾何学的に整形された大型水田がどこまでも続いているのが見える。ここは十六島と呼び、あまたの湖沼に挟まれた強湿田地帯であった。昭和30年、県営の土地改良事業が始まり、約2千ヘクタールの近代的な美田が完成した。椎名重晴も、この事業に役員として活躍した一人である。俳句は、多くの作品を残したが、どの結社にも属さず各種雑誌、新聞に投句発表した。

39.新堀菰風句碑
新堀菰風は、本名正。大正元年(1912)、佐原市扇島に生まれる。東京府立三中(両国高校)東京高等蚕絲(東京農工大学)を卒業後、蚕業試験場、製糸会社等に勤務する。 俳句は「若葉」「春嶺」同人。富安風生門。俳人協会員でもある。「早苗舟」「水郷十二橋」等の著書がある。句碑は高さ120センチ、幅は77センチである。

40.高塚一丸歌碑
所在地 香取市扇島 高塚邸
碑文
富士は手に 筑波枕や すゞみ橋 島田うるはし
よきとしもひたりも 一丸居士
碑は母屋左側の植え込みにある。昭和59年12月、裔孫によって建てられた。高塚一丸は、本名は石塚氏、名を堅義といい、岱雲・一丸と号した。天保10年(1839)、茨城県北浦村新宮に生まれ、高塚太左衛門の養嗣子となる。農業のかたわら醤油の製造を兼ね、暇あれば読書に励んだ。人となりは剛直であったという。新島村の戸長や収入役を務め、佐原・潮来間の道路を作るなど多大の功績を残した。父の重義(要斎)とともに私塾敬子学舎(後に「自化成」塾)を開き、近在の子弟を教育した。時に詩歌をつくり楽しみとした。号の一丸は高塚家の標「丸一」から由来するものであろうか。明治39年(1906)、67歳で没した。碑の大きさは、高さ142センチ、幅76センチ。