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伊能忠敬ゆかりの地をめぐるコース  ※ボランティアガイドの内容とは異なります

所要時間:1時間30分~

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忠敬橋

忠敬橋

忠敬橋
「ちゅうけいばし」と読みます。 現在の忠敬橋は、江戸時代には大橋といい、木造の橋で享保7年(1722)の火災で焼け落ち、その後数度かけかえが行われています。明治15年(1822)になって、立派な石造りの橋にかけかえられ、橋の下を船が通れるように隻眼橋になりました。総工費4840円隣村の牧野村から80円の寄付以外は、全部村民の寄付によって賄わられ、国や県からの援助は一切なくみんなの協力で造られたので橋の名前を協橋(かなえばし)としました。 時は流れ昭和32年交通量の増加に伴い、橋の巾員を1.8m程拡巾、それでも足りず、昭和43年には石橋を破壊し現在のコンクリートの橋にかけかえ、交通安全のため歩道橋がかけられ、名前もいつの間にか忠敬橋に変えられました。
伊能忠敬旧宅

伊能忠敬旧宅

伊能忠敬旧宅
店舗、母屋、土地は昭和5年に国の史跡に指定されました。忠敬17歳で伊能三郎衛門10代目に婿養子に来てから49歳まで32年間暮らした家です。建物は酒蔵を店舗として改造したもので忠敬の婿入り以前で、佐原で1番古い建物です。(約280年前)
伊能家は佐原で有数の商家で家業は酒造業を中心に米穀、油商、廻船業と幅広く商いをしていました。当時の屋敷は通り面した一郭を占める大きなもので、敷地内には母屋と仕事場、倉庫群が立ち並び、香取街道沿いには貸家も並んでいました。店舗の続きに炊事場、その奥に書院、東奥の土蔵も忠敬が建てたものです。
樋橋の落水

樋橋の落水

樋橋(とよはし)
通称「ジャージャー橋」といい、農業用水として使われていました。伊能家の記録によれば、今から約340年程前、佐原村私領、淵岸新田開発のために、堀割川が掘られ、伊能家の敷地内より小野川を渡り、新宿耕地に送られたのが始まりです。明治後期ごろまでは田植の時期から4、5か月は落水を見ることができました。現在は観光用に9:00~17:00まで30分ごとに5分間落水させています。
平成8年に環境庁「故郷に残したい日本の音風景100選」に選定されました。
伊能忠敬記念館

伊能忠敬記念館

伊能忠敬記念館
伊能忠敬の人生と、業績である伊能図が間近に見られます。
東薫酒造

東薫酒造

東薫酒造
創業180年前の文政8年(1825)です。
初代の卯兵衛さんは、幼い頃に伊能家に奉公に入り、ひたすら蔵人として伊能家の酒造りに努力しました。この頃の伊能家は、忠敬、影敬の時代で、酒造り全盛の時代でした。当時の伊能家の銘柄は「玉の井」「浅治」と言い、また佐原の酒は関東灘とも言われ、江戸の庶民からは、大変美味しい酒として喜ばれていました。酒の仕込み時期には蔵人たちが50人位いたともいわれ、卯兵衛さんは蔵人達の先頭にたって、当主を助け酒造りに励んでいました。伊能家からの株分けで、現在も酒造りを続けている酒蔵です。
試飲・見学(団体は要予約)が可能です。(年中無休)
観福寺

観福寺

観福寺
北総の名刹で江戸時代は末寺80寺を有した本寺格の大寺で、宗派は真言宗豊山派、山号を妙光山(別称牧野山)蓮華院 観福寺。
総本山は奈良の長谷寺。寺域は2,779坪。開基は、890年(寛平2年)高層尊海法印が堂宇を建立し、開山しました。
本尊は、平将門の守護仏とされる聖観世音菩薩。
中世には平氏一族、千葉氏、また近世には徳川氏の祈願寺となり、歴代武将の厚い帰依を受け、寺院も隆盛をきわめました。伊能忠敬のお墓があります。